Fate/staynight、とらいあんぐるハートクロス二次創作

理想の意味、剣の意志

二日目

出会い 〜Encounter〜



 夢を見る。

 赤い、紅い、煉獄のユメ。

 気が付くと俺は一人、焼け野原にいた。

 何が原因で発生したか、火元がどこかなんてわからない。

 一つだけいえる確かなことは、そこは地獄といっても過言ではない場所だということだ。

 崩れた家の下敷きになって息絶えた人間。

 炎に焼かれ黒こげになって転がっているかつて人だったモノ。

 彼等の苦悶の声が聞こえるようで、俺はその場から逃げ出した。

 ふらふら、ふらふらと、力無い足取りで灼熱の地獄を彷徨う。

 希望なんて持たなかった。

 生き延びたからには生き残ろうと、ただ見苦しく足掻いているだけ。

 ただ、気付けば視界に入る全てのものが燃えていた。

 炎が弱まりを見せたのは夜が明ける少し前の事だ。

 そうして周りを見渡した時、原形をとどめたまま生きているのは自分だけだった。

 理由なんて分からない。

 それこそ単純に運の問題だったのかもしれない。

 結果として、自分だけが生きていた。




――――――どれだけ歩いたのだろうか。

 幾つもの救いを求める声を振り切った。

 助けを求める声に耳を塞いだ。

 助けたところで身動きが取れなくなって倒れると分かっていたから。

 自分だけ助かろうとして、彼等を見捨てた。

 見捨てられた人間は口々に怨嗟の言葉を浴びせ、やがて力尽きて死んでいった。

 そうして死んでいった人たちは、死してなお声にならぬ声で少年を苛む。



――――――アツイヨ、タスケテ――――――


――――――ドウシテ、タスケテクレナイノ――――――



 錯覚かもしれないが、少年にはやけにはっきりとその声が聞こえていた。

 少年の純粋な心がそんな圧倒的な呪詛に耐えられるわけも無い。

 精神的にも肉体的にも、相当に追い込まれていた。

 けれど精神を責め苛むその呪いを背負いながら、けれどその歩みは止まらない。

 体力はとうの昔に限界を超え、それでも壊れかけた心が足を動かす。

 そしてとうとう力尽き、倒れた。

 もう立ち上がるだけの力なんて残ってない。

 もっとも、幼い少年の体力ではこの赤い世界からは抜け出せなかっただろう。

 そんなことは本能的に理解できていたことだ。

 分かっていても。必死に生き延びようと足掻いていた。

 だがそれも、もう限界だ。 

 身体は休息を要求して今にも意識を刈り取ろうとする。

 仰向けに倒れこんで見上げた空はどんよりと曇っていた。


――――――雨が、降るのか。


 しばらくぼんやりと空を見上げていると、ぽつり、と冷たい雫が頬を濡らした。

 少しずつ火の手は弱まり、この分ならあと数時間もすれば完全に消火されるだろう。

 それを見て、これで終わったのかと思いながらゆっくりと眼を閉じた。

 このまま死ぬのかな、と朦朧とした意識で考える。

――――――不意に、誰かの叫ぶ声が聞こえたような気がした。

 こちらに近付いているのか、足音が徐々に大きくなる。

 もう開かないと思っていた眼が、僅かではあるが開く。

「生きてる……よかった、本当によかった」

 霞む視界に映るのは、泣きそうな顔で微笑を浮かべた一人の男の姿。

 それを見ているうちに安心して、再び俺は眼を閉じた。

 消えゆく意識の中、印象に残ったその表情を見て、思ったんだ。

 本当に救われたのは、男の方だったんじゃないかって。

 そうして俺だけが生き延びた。

 それは、十年前の物語。







「はぁ、はぁ、はぁ……」

 布団を跳ね除けるようにして飛び起きる。

 身体は嫌な汗でびっしょりと濡れていた。

「はぁ、また……あの夢か」

 切嗣に引き取られる前の、俺の原初の光景。

 俺にはあの火災以前の記憶はない。

 おそらくそれは生き残った代償。

 身体を残した代償に、記憶と心が虚無へと消えたのだろう。

 病院に運ばれたそんな俺の前に、一人の男が面会に訪れた。

 それが衛宮切嗣。

 草臥れたロングコートを羽織り、第一印象はどうしようもなく胡散臭い奴だった。

「やあ、君が士郎君だね。
 一つ聞くけど見ず知らずのおじさんに引き取られるのと、そのまま孤児院で育てられるのと、どっちがいいかな」

 正直、どちらもたいして変わらないと思った。だから俺はその男について行くことにした。

 それから十年。

 あの火災以来、俺の中にいまだ根付く怨嗟の声。

 それは時折、夢となって俺を責め苛む。

「……起きよう」

 朝からやけに疲労した身体を起こす。

 時刻は四時三十分。

 布団をたたんで押し入れに詰め、洗面所へと移動し自分の姿を鏡で確認する。

 赤髪、童顔。年齢の割に低い身長が若干のコンプレックス。

 躯には恭にー程ではないにしろ度重なる鍛錬の跡ともいえる刀傷が幾つも刻まれていて、体育の時間などはなるべくコレを隠すようにして着替えている。

 蛇口を捻ると冬の空気よりなお冷たい水が流れ出し、それで顔を洗うと一気に眼が覚めた。

 いつもよりも早く起きたため、時間には余裕がある。

 洗濯機のスイッチを入れ、朝食の下拵えを済ませておこうと台所に立ち寄って冷蔵庫を開く。

「……買出しに行かないとまずいな、これは」

 朝食と弁当の分は残っているものの、夕飯にはとても足りない冷蔵庫の中身を眺めて一人呟く。

 幸いなことに今日はバイトもこれといった予定も入ってない。

 桜が来たら誘ってみるか、などと考えながら薬缶とタオルを持って道場に向かう。

 まだ眠っているのか、美由ねえの姿は見当たらない。

 ストレッチと素振りを終えて型の反復をして時間を潰していると、驚きの声とともに美由ねえが道場にやって来た。

「あれ、もう来てたんだ」
「ああ……夢見が悪くてさ、ちょっと早く目が覚めたんだ」

 大体の事情を察したのか美由ねえは「そう……」とだけ答え、模擬戦の準備を始める。

 それから朝の鍛錬を終えた俺は、シャワーで汗を流して制服に着替え、台所に入って朝食の支度に取り掛かった。

「おはようございます、先輩」
「おお、桜、おはよう」

 桜が訪れたので、いつものように調理を手伝ってもらう。

 料理が完成し皿を用意していると、桜が何かを聞きたそうにしていた。

「ん、どうした桜?」
「あの……先輩、大丈夫ですか? なんだか顔色が良くないようですけど」

 桜が心配そうな声で問い掛けてくる。

 やれやれ、妹分を心配させるなんて俺もまだまだだな。

「いや、大丈夫。なんでもないよ。ただ昔の夢を見ただけだからさ」
「そう……ですか」

 藤ねえから聞いてある程度の事情は知っているのか、それ以上の追求はなかった。

「おっはよー、今日のご飯はなにかな、なにかな」

 少しばかり重くなった空気を吹き飛ばすように玄関から藤ねえの陽気な声が届く。

「さてと、藤ねえも来たことだし飯にするか」

 雰囲気を変えるようにパンッと手を叩き、俺は皿を運んでいった。







 朝食を終える。

 藤ねえは叫び、美由ねえが天然で場を掻き混ぜ、桜が宥め、俺が突っ込む相変わらずの光景。

 藤ねえがいるというだけで、衛宮家の食卓は昨日に比べてなんとも賑やかだった。

 この人と、そして居候としてやってきた二人の剣士のおかげで、俺は親父がいなくても寂しいとは思わなかったんだろうなと時折思うことがある。

 親父は世界中を飛び回っていた人だから、ただでさえ家を空けがちだった。

 一人家に残される俺の世話をしてくれたのが彼女であり、美由ねえであり、恭にーである。

 ……いやまあ、どちらが世話をしていたかは置いといて、少なくとも彼女らと一緒にいる間は寂しいという感情とは無縁でいられたのは確かだ。

 伝えるつもりはないが、彼女らには本当に感謝してもしきれない。

 その藤ねぇは食事を終えてテレビを見ながらごろごろとしており、美由ねえは本に夢中だ。

 二人のあまり変わらないそんな様子に苦笑しつつ、食器類を洗う手を動かす。

「藤ねえ、昨日の職員会議って何の話だったんだ?」
「う〜んとね。最近行方不明者が増えてるそうなの」

 昨日から気になっていたことを寝転がっている藤ねえに尋ねてみる。

 行方不明とは、確かに遅くまで掛かっても仕方無い議題だな。

「行方不明って、うちの生徒か?」
「ううん、今のところ巻き込まれた子はいないみたい。
 だけど犯人が捕まるまでは安心できないって、部活動を早めに切り上げることが決まったわ」
「そうなると陸上部の連中は大会が近いってのに大丈夫なのか?」
「可哀想だけど陸上部の子たちには我慢してもらうしかないよ」

 貴重な練習時間がこんなことで削られては堪ったものではないだろう。

 犯人に憤りを覚えていると、藤ねえは不安そうに忠告した。

「士郎も桜ちゃんも気をつけてね。特に士郎はバイトがあるんだから」
「分かったよ。なるべく人通りの多い道を歩けばいいんだろ」
「分かりました。先輩も気を付けてくださいね」
「あれ、私は?」
「美由希さんが犯人と遭遇したら、逆にその犯人の命の方が心配だよ」

 冗談っぽく藤ねえは笑ってるけど、心配しているのは傍目にも明らかだった。

 わざとらしく時計を見上げ、話は終わりとばかりに藤ねえは大声を出す。

「もうこんな時間じゃない! 桜ちゃん、行くわよ」
「あ……は、はい」

 藤ねえに急かされて桜はあたふたと弁当を鞄に詰める。

「ちょっと待っててくれ。今日は俺も一緒に行くからさ」
「え、先輩もですか?」
「ああ、まだ昨日の仕事が残ってるんだわ」

 またいつもの生徒会の雑用だと察したのか、桜はそれ以上は何も言わず、俺は荷物を取りに自室に向かい引き返す。

 鞄を持って玄関に向かうと、既に藤ねえと桜は靴を履いて待っていた。

「お待たせ、それじゃ行ってきます」
「「行ってきます」」
「行ってらっしゃい」

 美由ねえの声に見送られて家を出て交差点へ続く坂を下る途中、俺は桜に話し掛けた。

「なあ、桜」
「なんです、先輩?」
「今日の放課後、ちょっくら時間取れるか?
 夕飯の材料が足りなくてさ、桜さえ都合がいいなら一緒に買出しでもどうかと思ったんだが……」
「残念だけどね士郎、今日は桜ちゃんは部活があるのだー」

 にははー、と横からしゃしゃり出てきた藤ねえは「ざまあみろ」とでも言いたげな顔で笑う。

 俯いた桜は、口元に引き攣った微笑を浮かべながら、藤ねえに対して長い前髪から僅かに覗く恨みがましい視線を突き刺していた。

「藤村先生……」
「さ、桜ちゃん。なによう、そんな目で見たってサボらせないわよ」
「藤村先生……」
「だから駄目だって……」
「藤村先生……」
「……士郎、助けて〜」

 ……痙攣してなお維持しつづける口元の微笑と、鋭さを増していく視線のギャップが恐ろしい。

 その視線の圧力に耐えかねた藤ねえは、一瞬前の勝ち誇った顔はどこへやら、情けない声をあげて俺に助けを求めてきた。

「桜、俺もちょっと生徒会の仕事が今日中には片付きそうになくてさ。
 弓道部が終わるまでそれをやっとくから、練習が終わったら体育倉庫まで迎えに来てくれ」
「はいっ、分かりました!」

 先程までの黒い雰囲気を霧散させ、桜はにっこりと素直な微笑を浮かべて頷く。

 こういったやり取りは俺達の間ではさほど珍しいことでもない。

 過去何度も似たようなことがあり、大抵は俺が生徒会の手伝いをして弓道部が終わるのを待つという結論で落ち着いていた。

 お馴染のやり取りを終えた俺達は、夕食の献立について話し合いながら交差点を曲がって学校に続く一本坂を登っていく。

 少し高台になっている坂道から見渡せる街並みはいまだ静寂に包まれており、朝早いせいか人影はまばらで、部活動に参加するであろう生徒やジョギングをしている老人と稀にすれ違う程度の出会いしかない。

 もっとも、新都の方にまで足を伸ばせば出勤途中のサラリーマンが大勢いることだろうが。

 校舎が近づくにつれ、既に朝練を始めている生徒達の喧騒が聞こえてくる。

 校門に辿り着いてみると、グラウンドでは既に陸上部が熱心に走りこんでいた。

 それを視界の片隅に納めながら、俺は二人を送り届けるためグラウンドを抜けて弓道場に足を運ぶ。

 穂群原学園にある弓道場は、一般市民にも開放されていて、広さにしても設備にしても学校の部活動で使うには申し分ないほど整っている。

 他の部活動に比べて遥かに優遇されていると言っても過言ではないだろう。

「それじゃ、俺はもう行くから。練習頑張ってくれ」

 弓道場の入り口で桜たちを見送り踵を返して校舎に向かおうとした俺は、道場の奥から大声で呼び止められた。

「衛宮、ここまで来たんなら上がっていきなよ」

 扉から顔を覗かせたその声の主は弓道部主将、美綴綾子。

 男勝りな性格の彼女は大抵の武道に精通した猛者で、弓道部に入部したのも単に心得が無かったからだという。

 そんな彼女だが、こと弓道に関しては俺をライバル視している面があり、ことあるごとに俺を道場に誘っては射を挑んでくる。

「俺、これから生徒会の手伝いに行こうと思ってたんだけど……」
「いいじゃんか、ちょっとくらい遅くなっても。
 それで柳洞の奴が文句を言うようならあたしが話をつけてやるって」
「そういうわけにもいかないだろ。それにあんまり部外者が出入りするのもどうかと思うしさ」
「大丈夫だって。間桐と藤村先生以外はまだ来てないから」
「そうだよ〜、遠慮すること無いって」
「ほらね、藤村先生もこう言ってるしさ」

 半ば強引に弓道場に入らされ、板張りの床に正座して美綴と向かい合う。

 桜が淹れた熱い緑茶を受け取り、それを一口啜って用件を尋ねる。

「で、何の用だ?」
「アンタ、分かって聞いてるだろ」

 即答。

 美綴は冷たい目で俺を見据え、次の言葉を待っている。

「やっぱ冬は温かい緑茶に限るよな」
「だな。……で?」

 話題変更を試みるが、返ってきたのは更に温度の下がった視線。

 避けて通りたい話とはいえ、これ以上の誤魔化しは通じそうに無い。

「…………弓を引く気は無いぞ」
「そんなこと言わずに一度くらい引いて行きなよ。
 ほら間桐、お前からも何か言ってやれって」
「せ、先輩の射、私も見てみたいです」

 二人掛かりで説得されるが、こればかりは俺自身のけじめであり、そう簡単に覆すことが出来るほど俺は器用な人間じゃない。

「悪いな、こればっかりはどうしようもないんだ」
「頑固だねえ。ま、それが衛宮らしいといえばらしいんだが」

 しつこく誘った割に、美綴は溜息一つであっさりと引き下り、手元にある緑茶を飲み干して桜におかわりを要求した。

 俺も空になった湯飲みを置いておかわりを注いでもらい、それを一気に飲み干し立ち上がる。

「ごちそうさま。俺はそろそろ生徒会室に顔を出すとするよ」
「ああ、引きたくなったらいつでも来い。いつだって歓迎してやるからさ」

 射場に背を向けた俺に投げ掛けられる美綴の言葉。

 軽く手を上げてそれに応え、俺はやや急ぎ足で生徒会室に向かった。

「おーい一成、いるか」
「む、衛宮か? 入ってくれ」

 生徒会室の扉をノックして中に入ると、書類と格闘している一成の姿があった。

「昨日の続きでもやろうと思ってな。一成、リスト貰えるか?」
「すまんな、朝早くから」
「気にすんなって。それにお前の方がよっぽど大変そうだぞ」

 机の上に所狭しと積み上げられた書類の山。

 事務処理能力と高さと責任感の強さが災いして、本来なら生徒会役員が片付ける案件も一成が引き受けることが多い。

「慣れているので大変というほどのものでもない。
 リストだったな、確かこのファイルに入れておいたはず……っと、これだ」

 俺の心配に一成は苦笑を返し、近くにあったファイルからリストを抜き出して俺に手渡す。

「では、よろしく頼んだぞ」
「ああ、任された」

 一成に鞄を預けて生徒会室を後にし、職員室に立ち寄って体育倉庫の鍵を受け取った俺は、そのまま目的地まで真っ直ぐに向かった。

 暗い体育倉庫の中、持参した工具箱を開き昨日の作業の続きを始める。

 予鈴の十分前、扉の外から一成の声が響いてきた。

「衛宮、そろそろ朝礼が始まるぞ」
「分かった、すぐに片付ける。
 放課後もやるつもりだから工具箱、ここに置いといてもいいか?」
「別にそのくらいは構わんだろう」

 片付け終えた工具箱を床の上に放置して扉を開き、二人分の鞄を持って待っていた一成と合流する。

「待たせたか?」
「いや、そんなことはない。では行くとしようか」

 二人で教室目指して歩いていると、C組の扉の手前まで来て一成が盛大に顔を顰めた。

 理由なんて一つしかない。

 廊下の向こう側からやって来るツインテールの女子生徒が原因だ。

「げっ、遠坂」
「人の顔を見るなりげっ、というのは流石に失礼なんじゃありませんか」
「ふん。貴様に尽くす礼などあってたまるものか、この女狐が。
 己の罪業をよく振り返ってみるがいい。そして悔い改めよ」
「あら。私にどんな罪があるとでも?」

 一成に女狐呼ばわりされた少女はA組の遠坂凛。

 成績優秀にして容姿端麗、おまけに運動も出来る穂群原のアイドル的存在なのだが、どういうわけか一成は彼女を毛嫌いしていた。

 お前達はあの女狐に化かされているのだ、というのが一成の常の主張である。

 二人は同じ中学出身というから、そこで何かあったんだろうけど、一成は頑としてその理由を語ろうとはしない。

 ただ顔を合わすたびに、傍から見ているだけで胃が痛くなりそうな毒舌の応酬が続けている。

 ……もっとも、現状を正確に分析するのであれば、突っ掛かる一成を遠坂が軽くあしらっているようにしか見えないのだが。

 予鈴が近いということで舌戦はひとまず中断し、睨みつけている一成の視線を流すように遠坂は自分の教室へ歩き出した。

 こちらに向かって歩いてくる遠坂と、運が良いのか悪いのか視線が合う。

「……おはよう、遠坂」
「おはようございます、衛宮くん」

 無視するわけにもいかず、咄嗟に口から漏れ出たのはありふれた陳腐な挨拶。

 にこやかに微笑んで挨拶を返した遠坂はそのまま颯爽とA組へと去っていった。

「……遠坂のやつ、俺の名前知ってたんだ」

 少し頬が緩んだのを見咎めたのだろう。

 一成は気に食わんと言わんばかりの顔で俺に説教をはじめた。

 毎度お馴染の文句を適当に聞き流しながらC組の扉を開け、自分の机に向かい鞄を置いた。

「遅いじゃんか衛宮。また柳洞の太鼓持ちでもやってたわけ?」

 話し掛けてきたのは桜の兄にして俺の友人、間桐慎二。

 慎二とは中学時代からの腐れ縁で、コイツと遊びに行って巻き込まれた喧嘩は数知れず。

 癇癪持ちの捻くれた性格なのだが、調子のいいその口調とルックスのためか女子生徒からの人気はかなり高い。

 それと反比例するかのように男子生徒からの人望は極端に低いわけだが……。

「あの女狐に加えてお前とも会うことになろうとは、今日は厄日に違いあるまい」
「おいおい、僕だってこのクラスの一員なんだぜ。会って当然じゃないか」
「何を言うかと思えば戯言を。常日頃授業をサボっているのはどこの誰だ?」
「どこの誰なんだろうねぇ」

 嫌味ったらしく笑う慎二に歯軋りをする一成。

 遠坂と一成程ではないが、一成と慎二の相性は悪い。

 堅物を体現しているような一成と遊び人を気取っている慎二。

 どうして俺の親友はこうも極端なのだろうか。

 二人がしばらく不毛な言い争いをしてると、予鈴の鐘が鳴り響いた。

 一成はらしくない舌打ちを一つして、慎二はニタニタと笑いながら各々の席に戻っていく。

 俺も自分の席に座り、担任の到着を待った。





 昼休み。

 午前中の授業を消化した俺は椅子から立ち上がって思い切り伸びをする。

「衛宮、今日はどうするのだ?」
「久々に教室で食べようと……いや、やっぱり生徒会室に行こう」
「了解した」

 ちっ、とあからさまな舌打ちをするクラスメイト達。

「また柳洞か」
「衛宮の弁当、独り占めしやがって」
「……明日こそ」

 クラスメイトからの恨みがましい視線から逃げるように、鞄から取り出した弁当箱を抱えて生徒会室へと移動する。

 生徒会室のテーブルの上に弁当を広げ、手を合わせて「いただきます」と言ってから蓋を開く。

「物は相談なのだが……」
「唐揚げでいいか?」
「有り難い。やはり寺の食事では肉類が不足しがちでな。
 この時分にタンパク質を取れないのは流石に辛いのだ」

 鳥の唐揚げ一つを箸で掴み上げ、精進料理という表現がぴったりな一成の弁当へと移す。

 生徒会室を使わせてもらう代わりに時折おかずを提供するという契約が結ばれたのは、もう半年以上も前のことだ。

 高校に入った当初は教室で弁当を食べていたのだが、ある日クラスメイトの後藤君が俺の弁当に関心を向けたのが事の発端。

「ほうほう、これは美味そうな。これは衛宮殿の作でござるか?」

 前日に見た時代劇に影響されたらしき独特な言葉遣いは未だ印象に残っている。

 後藤君の問に応と答えると彼は「一つ分けてはもらえぬか」と聞いてきた。

 特に断る理由も無かったので頷くと、自分の箸を持ってきて卵焼きを摘み口の中に放り込んだ。

「んぐんぐ……ほう、これはまた、絶品でござるな」

 その感想に興味を惹かれてか、クラスメイト達が俺の周りに餓えたカラスのように集まってきた。

 後藤君に分けた手前断ることも出来ず、次々とおかずが奪われていく。

 最後に一つだけ残ったおにぎりは彼らなりの良心だと思いたい。

 余談になるが、おかずを口にした女子数人が教室の影の方で涙していたが、それはきっと気にしないほうがいいのだろう。

 それ以降、俺が教室で弁当を食べようとすると十数人のクラスメイトが物欲しそうな目でこちらを見てくるようになり、その視線の圧力に耐え切れず弁当を分けるという日々が続いた。

 その状況を咎めたのが生徒会役員として着実に地位を伸ばしていた一成だ。

 現状を見るに見かねた一成は生徒会室を使う許可を得てから話を持ちかけてきた。

 そうでもしないと俺が納得しないのが分かっていたんだろう。

 そんなこんなで生徒会室で食事を取っている俺達だったのだが……。

「で、何故間桐がここにいる?」

 箸を止めた一成が俺の横に座ってパンを食っている慎二を一瞥する。

「何? 僕がいたら悪いっての?」
「ああ、悪いね」
「……やれやれ、僕も随分と嫌われたもんだ」

 一拍の間も置かず断言する一成に、慎二は軽く肩を竦めて溜息一つ。

「衛宮、この鮭貰うよ。やっぱ購買のパンだけじゃ物足りなくてね」
「ほらよ、持ってけ」
「サンキュ」

 学食から持ってきた割り箸で焼き鮭を挟み、食べ終えたパンの袋の上に乗せる。

 俺の昼食を狙って慎二がここを訪れることはそう珍しいことでもない。

 慎二が生徒会室に来るようになったのは、俺がここを利用しはじめてから数日後のことだ。

 一成と慎二が話し合った結果、慎二を受け入れるかどうかの最終的な判断は何故か俺に委ねられた。

 特に断る理由も無いのであっさりと慎二の申し出を了解し、一成の不興を買いながら今に至るというわけだ。

 しばらく三人で、といっても一成と慎二は面を向かい合えば口喧嘩になるのは目に見えていたので俺と慎二、俺と一成の板ばさみ的な会話を続けていた。

「さて、そろそろ行くとしようか」
「そうだな。教材取りに戻らなきゃなんないし」

 午後の授業の開始まではまだ余裕があるが、五限目は移動教室なので一旦教室に戻って教科書やらを揃える必要がある。

 早く行くに越したことはないだろうと意見が一致し、三人で教室へと歩いていった。






 放課後の鐘が鳴る。

「あのさ、ちょっとヴェルデで買いたいものがあるんだけど」
「いいわよ、ちょうど私も欲しいのがあったんだよね」

 と言って新都にまで足を伸ばす生徒もいれば、

「俺たちの目標は地区大会優勝だ」
「おおっ」
「今年こそ行くぞ、甲子園」
「おおっ」
「……だからせめて、一回戦くらいは勝とうな」
「……おお〜」

 と気合なのか虚勢なのか分からないものをあげて部活に励む生徒もいる。

 俺はそんな生徒たちの合間を縫って一人生徒会室に向かう。

 生徒会室に着くと、そこでは朝と似たような光景が展開されていた。

 扉を前にして口論している一成と遠坂。

 話の内容に耳を傾けてみると、文化部に回す予算を少しは運動部に回せと抗議しているらしい。

 しかし、それもやがては何の関係のない話題へと変わっていく。

「今更貴様に言われるまでもなくそんなことは分かっている。
 そもそもどうして貴様が生徒会の予算の分配を知っているのだ」
「あら、知られては不味いような使い方でもしているのかしら?」
「そんな筈がなかろう。俺が問題としているのは情報が流出し、貴様の耳に入っているということだ。
 貴様のことだ、会計でも脅して聞き出したのだろう?」
「あら、人聞きの悪いことを言わないでくださいますか。
 少しばかり世間話をしている時に親切にも教えてもらったんですよ」
「どうだか。最近会計の後輩がノイローゼになってきていることに関わっておらんとは言わせんぞ」
「何の話でしょうか、私はまったく存じ上げませんわ」
「……常より俺は貴様が気に食わないと思っていたのだ」
「奇遇ですね、私も貴方のことは以前から虫が好かなかったんです」

 火花を散らして睨み合う二人。

 あ〜、そろそろ止めた方がいいんだろうな。

「一成、その辺にしとけって」
「うおっ、衛宮。いつからそこに」
「結構最初の頃からいたけど」
「むっ、それは見苦しいところを見せたな」
「見苦しかったのは貴方だけではないかしら」
「何を言うか、この魔女が」

 遠坂の挑発に、一成が吐き捨てるように言葉を返す。

「落ち着け一成。頼むから遠坂もこれ以上一成を刺激しないでくれ」
「そうですね、言いたいことは言いましたし私はそろそろ帰らせてもらいましょうか。
 それではごきげんよう、衛宮くん」

 去り際、俺に流し目を送り、一成には目を向けることなく帰っていく遠坂。

 彼女の姿が完全に見えなくなると、一成は今まで溜め込んでいたものを吐き出すような深い深い溜息をつく。

「まったく、朝といい今といい何なのだあの女狐は。
 衛宮、あやつには気を付けろよ。完璧に猫を被っているが中身は食えぬ狐だからな」
「朝にも同じ事を聞いたよ」

 苦笑しながら生徒会室に入り、リストを受け取った俺は体育倉庫へと移動する。

 作業を始めて三十分くらい経った頃だろうか。

 扉の開く音と共に、馴染みある気配が入ってきた。

「衛宮くん、今日もいたんだ」
「そりゃあ一日で終わるような量じゃないからね」
「ご苦労様です」

 こちらに近付いた三枝はスポーツドリンクのペットボトルを差し出す。

「いいのか?」
「はい、そのつもりで持ってきましたから」
「なんだ、はじめから俺がいるって分かってたんじゃないか」
「そうでもないですよ。いればいいな、って思ってただけで」
「そっか……ありがとな」

 キャップを開け、一口だけ飲んで床に置く。

「それで三枝は何を取りに来たんだ?」
「特に何も、ただ衛宮くんがいるかなって」
「俺に何か用事でもあるのか?」

 軽く聞き返した俺に、三枝はしばらく躊躇った後、意を決するように拳を握りながら言った。

「あの、明々後日の日曜日、陸上部の大会があるのは知ってますよね」
「ああ」
「よければ観に来てくれませんか?
 修理のお礼の兼ねて、お弁当用意して待ってますから」
「そう……だな。
 日曜は特に用事も無かったはずだし、そこまで言ってくれるなら行かせてもらおうかな」

 折角誘ってくれているのに断るのは申し訳ないし、三枝の料理も楽しみだ。

「はいっ、楽しみにしてます。
 八時半に、新都の改札の前に来てください」

 心から喜んでいると分かるような純粋な笑顔を浮かべた三枝は「それでは」と言って背を向け、最後に一度だけ振り返って礼をして去っていった。

 時間が過ぎるのは早いもので、それからすぐに下校時刻が訪れた。

 このペースなら明日で終わらせられるだろう。

「先輩、いますか?」

 扉を開きながら掛けられる桜の声。

「ちょっと待っててくれ。今片付ける」

 工具を工具箱に放り込み、用具は分別して置いておき、空になったペットボトルと工具箱を持って体育倉庫を出て鍵を閉める。

「もう少しだけ待っててくれ。生徒会室にリストを返しに行かなきゃならん」
「はい、分かりました。校門のところでお待ちしてますね」

 桜を待たせているため急いで生徒会室に向かい、一成にリストを返す。

「ご苦労。それで衛宮よ、今日は家に来るのか?」
「そうなるかな、バイトも無いし」
「了解した、門を開けて待っておこう。それではまたな」
「ああ、じゃあな」

 一成と別れ、職員室に立ち寄って鍵と工具箱を返して正門まで走る。

「悪い。待たせたな、桜」
「いえいえ、思ってたよりずっと早かったです」
「そう言ってもらえると助かる。それじゃぼちぼち行きますか」

 夕陽に照らされ紅く染め上げられた坂道を下り、桜と共に商店街へ向かう。

 マウント深山商店街。

 スーパーのトヨエツから肉屋、八百屋といった食品関連の店、あの泰山を中心とした中華料理等の料理店、そしてその他日用品、薬品、病院、花屋、果ては骨董品店といったものまで、商店街には無秩序に店が並んでいる。

 普通に買い物をするという状況なら、ここで全てがまかなえる充実具合だ。

「さて、今日は何にするか」
「まずはトヨエツから見ていきませんか」
「そうだな、そうするか」

 スーパートヨエツ。

 品揃えや品質の良い中堅スーパーで、深山町の主婦たちはここを重宝している。

 新都の方にまで足を伸ばせば品数豊富な大型デパートのヴェルデもあるのだが、如何せん遠いのが問題だ。

 トヨエツに入り、まずは野菜売り場を見て回る。

「先輩、これなんてどうですか」
「いや駄目だ。それならばこっちの方が良い」

 少しでもいい品物を手に入れるために費やす時間を俺は別に惜しいとは思わない。

 掘り出し物や安売りがないかと探すものの結局そういったものは見つからず、不足していた各種調味料と茶葉、明日の朝食用の食材数点を購入してスーパーを後にする。

 精肉店でメインとなる鶏肉を、八百屋で付け合せの野菜を買い、俺たちは帰路についた。

「ただいま〜」
「ただいま帰りました」
「おかえり」

 居間から美由ねえの声が届く。

 ひとまず玄関に鞄を置き、居間の扉を開いてテーブルの上に食材の入った袋を乗せる。

「藤ねえはまだなのか?」
「うん。今日も会議で遅くなるから夕飯はいらないって連絡あったよ」
「大変なんだな、藤ねえも。また後で差し入れを持って行ってやるか」
「そうしてあげたら。昨日の差し入れ、大河、とても喜んでたし」
「それなら張り切って作らないとな」

 桜と二人、台所に入って夕飯の支度を始める。

 食事が完成し、昨日と同じく三人で食卓を囲い、片付けを終えた後桜の見送りついでに藤ねえの差し入れを持っていく。

 その帰りに見上げた空は、曇天。

「今日も行くの?」
「一成には行くって伝えたし、一応傘は持っていくつもりだけど」
「そう、じゃあ準備を終えたら玄関で」
「了解」

 手早く荷物を用意して美由ねえと落ち合う。

 そのまま柳洞寺に向けてランニングを開始し、寺に着く頃になって小雨が降り出した。

「あちゃあ、降ってきたよ」
「今更引き返すのもなんだし、本降りになったら中断すればいいだけだろ」

 山門を潜って零観さんたちに挨拶をしてから俺たちは森へと向かう。

 雨足は少し強まっていた。

 夜の闇と雨の雫が視界を妨げるが、気配を読める御神の剣士にあまり意味は無い。

 俺は木刀を構え、美由ねえの準備が終わる頃合を見計らって合図無く飛び掛った。

 それからしばらく打ち合いを続けていたが、雨が本降りになってきたのを見て、決着のつかないまま互いに刀を引く。

 鍛錬を終えて本殿に戻ると、零観さんが茶を啜って待っていた。

「お疲れさま、二人とも。温かいお茶はどうだい?」
「ありがたく頂きます。そういえば葛木先生は?」
「まだ帰っていないな。おそらく会議が長引いているのだろう」
「そうですか」

 運ばれてきた湯飲みを持ち上げ、一口。

 冷えた身体に温かい緑茶が心地良い。

「お茶、ごちそうさまでした。
 これ以上雨が強くなると流石にまずいので、俺たちはそろそろ帰らせてもらいます」
「そうだな。傘は持ってきていたのだったか」
「はい、それではお邪魔しました」
「うむ、気を付けて帰りなさい」

 零観さんの声に送られて本殿を後にする。

 二人傘を差して石段を下りている途中、不意に脇の林から誰かの声が聞こえた気がした。

 それは雨音にでも消えそうなほど弱々しい声。

 聞き間違いかとも思って耳を傾けると、やはり誰かいる。

「美由ねえっ!!」
「うん、分かってる!」

 聞こえてくる呼吸の間隔から相手がかなり危険な状態だと気付くと、俺たちは傘と荷物を投げ捨てて躊躇することなく声のする方へと走り出した。





Interlude2―1





 どれくらいの距離を彷徨い歩いたのだろうか。

 鬱蒼と茂る暗い雑木林の中を、私はただ歩き続ける。

 愚かな主人を自らの手で殺め、宝具をもって確実に契約を断ち切った。

 小心者の癖に自尊心だけは必要以上に高い、その他に何の特徴も無いくだらない男。

 そんな人間をマスターと認めるほど、私は寛容な精神を持ち合わせてなどいない。

 従順な振りをして信用させ、くだらないことで令呪を消費させ……そうして、裏切った。

 マスターの死は自分が存在するために必要な魔力の供給源を失うということを意味する。

 男は三流であれ魔術師には違いなかった。

 微量に制限されていたとはいえ、最低限の魔力供給はあったのは事実なのだ。

 ともあれ、正直言って問題が魔力不足だけならなんとでもなった。

 計算違いだったとすれば、自身を現世の留める為の依り代を失うことの意味を甘く見すぎていたことだ。

 依り代が無ければ現世との繋がりを失ってサーヴァントはあるべき場所へと還される。

 元来の魔力があれば今の状態でも後二日程度は留まることも出来ただろう。

 だが今この身に残っているのは令呪によって制限された僅かな魔力しかない。

 その残り少ない魔力も、現界しているだけで常に消費している。

 魔力の限界は、すぐそこまで迫っていた。

 近くにあった木に力を失い徐々に薄れゆく体を預ける。

 もう、体を起こそうという気も起こらない。

「あ、ははははは」

 惨めさに自嘲的な笑いを抑えることができない。

 私のような存在は誰に知られず消え去るのがお似合いだということか。

 自分自身があまりに滑稽だった。

 やがて声を上げる体力も底を尽き、私に出来るのはただ無為に喉を振るわせることだけ。

 気が付けば、嘲笑は嗚咽に変わっていた。

 消えるならいっそ潔く消えてしまいたい。

 どうせ誰も助けてなんてくれないのだから。

 降り出した雨は溢れ出た涙を洗い流してくれる。

「消えたく……ない……」

 力無く、掠れた声で呟く。

 消えてしまいたい、だけど……消えたくない。

 相反する願い。

 未練も、多少はあるのだろう。

 でもそれ以上に、ただ悔しかった。

 運命として受け入れていても、このまま終わるのは悔しかった。

 けれどいくら願ったところで、もはや私にどうすることもできない。

 視界が歪み、だんだんと意識も朦朧となる。

「――――――大丈夫ですか?」

 差し伸べられる手の主を確認するだけの力は私には残っていない。

 霞んだ眼にうっすらと映るのは、髪の赤い少年。

 唐突に掻き消えた私を彼はどう思うのだろうか。

 そんな考えを最後に、私の意識は途切れた。






Interlude out






 薄暗い木々の合間を縫うように走る。

「美由ねえ、場所分かるか?」
「漠然とはね。どういう訳か気配が微弱で詳しい所までは分かんないけど」

 時間が経つにつれて徐々に小さくなっており、今にもその気配が消えそうであるため、正確な場所を特定するのが難しい。

 内心の焦りを押し殺し、僅かに聞こえてくる呼吸音を頼りに探し回る。

 そうして見つけたのは木に寄り掛かっている一人の女性。

 俺は近付いて女性の姿を見て、思わず絶句した。

 フードが脱げて露になった女性の顔が息を呑むほど美人だったということもある。

 御伽噺に出てくるエルフのように尖った耳も一因には違いない。

 しかしそれ以上に異常なのは、血塗れのその姿。

 身に纏った高級そうな紫のローブも、下半身のほとんどが朱に染まり台無しになっていた。

 その出血は人一人から流れたとすれば明らかに致命傷といえる量。

 それに比べれば容姿の問題など些細なことだ。

「大丈夫ですか?」

 慌てて駆け寄り、声を掛ける。

 言ってから、我ながら馬鹿らしい事を聞いたものだと思う。

 どうやってここまで辿り着いたのかも不思議なくらいなのだ。

 大丈夫だと思うほうがどうかしている。

 俺の声を聞いて安心したのか、それとも単に体力が尽きたのか。

 女性は意識を手放したらしく脱力して動かなくなった。

 だが状況が好転したわけではない。

 その間にも生命の灯火は失われつつあるのだ。

「待って、士郎」
「なんだよ。急がなきゃやばいって美由ねえにも……」
「これ、返り血よ」
「……えっ?」

 即座に女性を抱え上げ、どこか安静に出来る場所に運ぼうとしていた俺の手が思わず止まる。

 ――――――返り血?

 冷静に観察すれば女性に傷らしい傷は無く、その全てが別人の血だと推測できた。

 しかし、だとすると何故これほどに衰弱しているというのか?

 本人ではないとすれば誰の血だというのか?

「返り血だったとしてもこの女性が衰弱してるのは事実なんだ。
 こんな雨の中に放っていくわけにもいかないだろ」
「……それもそうだね。それで、どこに運ぶの?」

 そう、そんなことは後で考えればいい。

 今は一刻も早く治療できるところに運ぶべきなんだ。

 俺の家……却下だ、ここからはあまりに離れすぎている。

 雨で体温を奪われた身体は下手をすれば運んでいる間に力尽きかねない。

 こんな所で考えても仕方ない、と女性を抱え上げて林を抜け、ひとまず柳洞寺の石段中腹の踊り場に出る。

「衛宮、それに高町さん……その女性は?」
「葛木先生……ちょうどよかった」

 階段を上ってくる葛木先生と出会った俺たちは簡単に事情を説明する。

「大体のことは理解した。堂に運べ、私は救急箱を取ってくる」
「分かりました、お願いします」

 彼は俺の抱えた女性を見て緊急事態だと察したらしく、堂内に運び込むよう指示を出して葛木先生は自室へと駆け出した。

 俺は言われた通り御堂にまで女性を運び、横たえる。

 呼吸は落ち着いてきたようだが濡れた衣服を着たままというのは身体に悪いと思い、美由ねえに頼んで服を脱がしてもらう。

「士郎、こっち向いたら駄目だからね」

 振り向けばどうなるのかは考えるまでも無い。

 静寂の中、ローブを脱がせる衣擦れの音がやけに大きく聞こえる。

 脱がしている途中、微かな足音と共に救急箱と敷布団を持った葛木先生が御堂の中に入ってきた。

 沈黙が御堂を包む。

「衛宮、高町さん」
「な、なんですか」
「なんでしょうか」

 後ろめたい気持ちは無い、はずだ。

 脱がせているのは美由ねえだし、じろじろと眺めていたわけでもないし。

 それでも焦ったような声が出たのは状況的に仕方ないのではなかろうか。

 うぅ、美由ねえから突き刺さる冷たい視線が痛い。

 葛木先生は別段それを気にした様子も無く、いつものように淡々とした口調で問い掛ける。

「高町さんは作業を続けてください。衛宮、容態はどうだ?」
「特に異常があるわけじゃなさそうですけど……。
 服に着いた血も彼女のものというより返り血の可能性の方が高そうですし」
「ふむ……ではこの女性はただ衰弱しているだけなのか?」
「おそらくは」
「そうか。二人は先に帰るといい、後は私が見ておこう」
「元々俺たちが運び込んだんです。
 俺たちが回復するまで面倒見るのが筋です。
 ここは俺たちに任せてもらえませんか?」
「ふむ、家の方は大丈夫なのか?」
「朝になっても女性が気付かないようなら連絡をいれておきます。
 あのローブを見る限り、下手に病院に連れて行くわけにもいきませんから」
「お前がそこまで言うならば私からはとやかくいうまい、後は任せたぞ衛宮。
 高町さんも、彼女をよろしく頼みます」
「任せてください」
「ならばお言葉に甘えて私は先に休ませてもらうとしよう」
「ええ、お休みなさい」
「おやすみなさい」
「うむ、おやすみ」

 葛木先生はゆっくりと立ち上がり、俺たちに後を託して自室に戻っていった。

 残ったのは俺と美由ねえと女性の三人だけ。

 ひとまず布団を敷き、その上に女性を寝かせる。

「……ねえ、士郎。この女性のこと、どう思う?」
「さあな。ただ……」

 改めて目の前の女性のことを考えてみるが、何一つとして分からない。

 存在感が少しずつ薄くなっていく理由も。

 何故返り血を浴びていたのかという理由も。

「ただ、どうしたの?」
「雨に濡れてるにしては……いや、人間の体重としては異常としか言えないくらい、軽かった」
「軽かった? ふ〜ん……」

 美由ねえは首を捻って女性と俺とを交互に見比べて考え込むように目を瞑る。

 俺も自分なりに考えを巡らせ、思考の海に沈んでいく。

 それからどれくらいの時間が流れたのか。

 思考に耽っていた俺は、女性の声に現実へと引き戻された。

「うぅ……ん」

 意識が戻ったのか、女性はゆっくりと眼を開く。

 焦点の定まらない瞳はぼんやりと天井を眺めたまま動かない。

「ここは……私は、どうして……」
「気が付きましたか」

 女性は俺の声に驚いたのか、はっとしたようにこちらに視線を向ける。

「坊やたちが私をここまで運んでくれたのかしら?」

 先程まであれほど衰弱していたはずなのに、言葉には確かな力があった。

 まだ息は荒いままではあるものの意識ははっきりとしているようだ。

「そうですけど……」
「それよりも大丈夫なの?」

 美由ねえの質問に女性は首をゆっくりと横に振る。

「このまま放っておけば、もって後三十分といったところかしらね」

 あっさりと、まるでそれが当然であるかのように彼女は己の死を口にした。

 言葉を失っている俺とは違い、美由ねえは解せないといった顔で尋ねる。

「……やけに落ち着いてるね」
「だって助かる方法が目の前にあるんですもの」

 クスッ、と背筋が寒くなるような笑みを浮かべる女性。

「どういうこと?」

 警戒して片膝を上げた美由ねえは、返答によってはと無言の圧力を放ちながら、詰問そのものの口調で問う。

 そんな美由ねえの様子に女性は苦笑を返し、降参とばかりに両手を上げて答えた。

「あら、怖いわね。そんなに凄まなくても大丈夫よ。
 今の私には貴女達をどうこうできるだけの力なんて残ってないから」
「だったら助かる方法っていうのはなに?」
「簡単よ、そこの坊やが私を抱いてくれれば、私は助かるわ」

 瞬間、時が止まった。

 美由ねえも予想外の返答に口を半開きにしたまま固まっている。

「……いい加減正気に戻ってくれないかしら」
「――――――はっ」

 女性の声に我に返った俺たちは冷静さを取り戻そうと深呼吸を繰り返す。

「……なんでさ」
「……なんでよ」

 落ち着いた頃合を見計らって女性に説明を求めると、彼女は疲れたように溜息をついた。

「残念だけどそれに話してる時間はもう無いのよ、何処かの誰かさんがいつまでも思考放棄してくれたお陰でね。
 だから抱くか抱かないか、早く決めてちょうだい」
「納得できるわけないじゃない、そんな二択。他の方法は無いの?」
「あるにはあるけど、どれも時間が足りないものばかりね。
 そもそも抱くかどうかを決めるのは貴女ではなく坊やの役目、貴女に納得してもらう必要はないわ。
 ねえ坊や、私を抱くのは嫌?」

 ローブを脱いで下着だけになった女性が流し目を送りながら問い掛ける。

 紫の髪に白い肌、大きくも小さくも無い双丘に細い腰、艶かしい曲線を描く太股。

 俺だって一応健全な男子高校生なわけで、その光景は刺激が強すぎるわけで、据え膳食わねばなんとやらなわけで…………イヤイヤイヤ落ち着け衛宮士郎、お前はそれでいいのか……。

 理性と煩悩がいまだ脳内闘争を繰り広げる中、俺の口からは自然と言葉が漏れていた。

「……抱けば、アンタは助かるんだな」
「ええ」
「分かった、抱こう」

 その言葉を聞いた俺の脳内が休戦協定を結ぶ。

 倫理観に縛られて救える命を見捨てるなんてこと、俺には出来ない。

 結論は、あっさりと出た。

 僅かな躊躇を断ち切った一因に、先程の時間が無いという言葉もあるのだろう。

 冷静に思考する暇は無い。

 ただ、衛宮士郎の根底にある想いが必死に叫んでいた。

 俺は彼女を救わなければならない……と。

 女性を救う術がそれしかないなら、俺は自分の常識をも押し殺そう。

 ああ、それで彼女が助けられるというなら構わないさ。

 俺の貞操と人の命、どちらが尊いのかなんて考えるまでもないんだから。

「ちょっと士郎。いいの?」
「いいさ、このまま見殺しにするよりずっといい。
 考えた末に出た結論なんだぞ、これでも」
「そう……。士郎がそう決めたんなら私から言うことはもう無いよ。
 邪魔者はさっさと退散させてもらうから、あとはごゆっくり」

 どこか寂しそうに笑いながら、美由ねえが御堂を去っていく。

 二人残された御堂の中、女性が静かに問い掛けてきた。

「……坊や、本当にそんな理由で抱くって決めたの?」
「半分本音で半分建前だな。
 アンタみたいな美人を抱くんだ、嫌なわけが無い」
「そう、ならいいわ」

 答えを聞いた女性はそれだけを告げると、ゆっくりと下着に手を掛ける。

 正直に言うと今も迷っている、でももう迷ってなんかいられない。

 俺は覚悟を決めて全裸となった女性に覆い被さった。





 その選択は、本来有り得なかった未来。

 朽ち果てた殺人鬼はカラッポの理想主義者の少年にその役を委ねて舞台に上がらず。

 少年は、裏切りを背負い続けた稀代の魔女と出会った。






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 二日目。
 思った以上にラストの締めが難しかった。