Fate/staynight、とらいあんぐるハートクロス二次創作

理想の意味、剣の意志

一日目

日常 〜Daily T〜



 普段通りの朝の目覚め。

 脇に置いていた時計を見ると、時刻は五時になろうとしていた。

 太陽が昇っていないため、自室の窓から見える外の景色はいまだ暗い。

 深呼吸をして、冬特有の冷たい空気を存分に吸い込み、吐き出し、寝起きで呆っとしていた思考に活を入れて容赦無く叩き起こす。

 うんっ、と軽く伸びをすると体の節々が音を立てるのも、いつもどおり。

 道着に着替えて布団を畳み、台所で朝食の仕込みをしてから道場へと向かう。

 一礼をして道場に足を踏み入れると、既にストレッチを終えた美由ねえが剣の素振りをしていた。

「おはよう、美由ねえ」
「おはよ、士郎」

 毎日変わらない朝の挨拶。

 俺もストレッチを済ませ、道場の隅に立て掛けてある自前の木刀を手に取り、軽い素振りと一通りの型の反復を終え、もはや日課となっている美由ねえとの模擬戦をはじめた。

 三十分後、事前に設定しておいたアラーム音を合図に互いに剣を引く。

「ありがとうございました」

 礼を終えて道場入り口付近に置いてあるタオルで汗を拭い、美由ねえが持ち込んだであろう薬缶に入った冷水をコップに注ぎ、それを一気飲みする。

「お疲れ〜。桜たちが来るまでまだ時間もあるし、先にシャワー浴びてもいい?」
「いいよ、俺はもう少しここで休んでる」

 道場を後にする美由ねえを視線で追い、完全に見えなくなるのを待ってから汗をたっぷりと吸い込んだ道着を籠の中に放り入れる。

 そのまま板張りの床に大の字で寝転がり、なにをするでもなくぼんやりと天井を眺めていた。

 どれだけの時間そうしていたのか、「シャワー空いたよ」という美由ねえの声に身体を起こし、道着を入れた籠を片手に風呂場に入り、冷たいシャワーを浴びる。

 あらかじめ脱衣所に置いておいた制服に着替えて居間に向かうと、美由ねえは座布団に正座をして文庫本を読んでいた。

 読書の邪魔はしない方がいい、と俺は台所に立ち、仕込みをしておいた朝食を完成させていく。

 その途中、玄関から人の気配を感じて、鍋の火を一旦止めて応対に出た。

「おはよう、桜」
「おはようございます、先輩。お邪魔しますね」

 やってきたのは妹分である間桐桜。

 桜がこの家に通い始めてもう一年以上経つ。

 友人である間桐慎二の妹だが、兄は自信過剰な捻くれ者、妹は温厚で素直な少女と、信じられないほど性格が似ていない。

 別の人間なんだから当然だと言えばそれまでなんだけどさ。

「それじゃ、虎が来る前にとっとと準備を済ませるか」
「はいっ!」

 嬉しそうに頷く桜と共に台所に移動し、残りの料理を完成させていく。

 出会った頃の桜はまともに料理をしたことが無かったらしく、おにぎりさえ満足に作れなかったのだが、それが今となってはどこに出しても恥ずかしくない腕前だ。

 ……俺、弟子に負けたりしないだろうなぁ。

 そんなどうでもいいことを考えている間にも作業がスムーズに進んでいくのは、一種の慣れなのかもしれない。

 出来上がった料理を皿に盛り付けていると、ドタドタと騒がしい足音が聞こえてきた。

「……来たな、虎が」
「あはは……相変わらず分かりやすい人ですね」

 居間に飛び込んでくる虎こと俺の姉貴分、藤村大河を桜の苦笑が出迎える。

 これで教職者というのだから、世の中というのは分からない。

「しろ〜、朝御飯まだ〜」
「もうちょい待ってろ、今持ってくから」

 朝の第一声がそれというのは教師としてというよりも大人としてどうかと思うが、十年も一緒にいれば自然と慣れてくるもので、いつもと変わらない朝のイベントとして受け入れている。

 とはいえ飢えた猛獣が危険なのは当然なわけで、急いでテーブルに食事を並べていく。

「おはよ、大河、桜」

 本を読み終えたのか朝食だと気付いたのか、文庫本を閉じた美由ねえが挨拶する。

「おはようございます、美由希さん」
「おはよ〜」

 桜は丁寧に、藤ねえは相変わらずまったりとしたまま挨拶を返す。

「何か手伝うことある?」
「だったら箸とコップを頼めるか?」
「まかせて」

 素早く立ち上がり準備に参加する美由ねえと、対照的に座布団に腰を下ろしたままテレビのスイッチを入れニュースを見ている藤ねえ。

 二人の義姉の差を眺めながら動いているうちに全ての料理を運び終え、全員が腰を下ろしたのを確認して合掌する。

「いただきます」
「「「いただきます」」」

 早朝から運動して空腹気味の身体に、食欲をそそる朝餉の香りが心地よい。

 メインは日本の朝の食卓の定番料理、鮭の塩焼きを。

 サブとしてハムとレタスのサラダ、納豆、海苔を用意。

 揚げと豆腐の味噌汁と炊き立ての白米は、偏見と言えばそれまでだが、日本人の食卓には欠かせない必需品だと俺は思う。

 テレビの天気予報を読み上げる声と、かちゃかちゃという食器の音だけが居間に響く。

「おかわり!!」
「……ほらよ、藤ねえ」

 食事をはじめて一分も経たないうちに突き出される藤ねえの茶碗に、炊飯器から山盛りの白米を入れて渡す。

 その間、藤ねえに取られないよう自分の鮭をキープすることも忘れない。

「ごちそうさま」

 十分後、食事を終えた俺達は食器を流しに放り込んで居間で駄弁る。

 緑茶を啜りながらテレビのニュースを聞き流していると、美由ねえが思い出したように言った。

「そういえばさ、昨日恭ちゃんから連絡があったよ」
「恭にー、何か言ってた?」
「もうじき仕事が落ち着くらしくて、二ヵ月後にはたぶん帰れるだろうって」

 八年前、親父の知り合いとして紹介された美由ねえと恭にー……高町美由希と高町恭也は、この家の居候として暮らしている。

 二人は護衛を生業とする御神流という剣術を修めた剣士であり、年に何度かSPのような仕事を引き受けて家を留守にすることもしばしば。

 それでもどちらか一人はいつも衛宮の家に残っており、放浪癖のあった親父に代わって俺の面倒を色々と見てくれた。

 ちなみにこの呼び名は、出会ってしばらくの頃、藤ねえという愛称を聞いた本人達が剣を教えて欲しいと頼んだ俺に、だったら他人行儀な呼び方は止めてくれと交換条件のように切り出されたものであり、それがしだいに馴染んでいって今に至るといった形である。

 五年前、親父が他界してから数ヶ月が経ったある日のこと、恭にーは武者修業の旅に連れて行ってやると俺を強引に日本中を引っ張りまわしたのも今となってはいい思い出……だと信じたい。

 その恭にーはというと、半年ほど前に得意先から依頼を引き受け、テロ組織を追って今も世界を飛び回っている。

「元気だった?」
「ううん、電話越しでも疲れてるのが分かるよ。
 身体には気を付けてね、とは言ったんだけど……」
「そうだよな、やっぱ無事に帰ってきてくれるのが一番だ」
「あ、恭也さんから連絡あったんだ。御土産何かな〜」

 一人、能天気な虎が遅れながら会話に参戦。

「俺としては土産話だけで十分なんだけどな」
「そんなことを言いながらいい年して珍しい剣とか貰って喜んでるくせに」
「うるせ、あれは男のロマンなんだよ」

 俺の趣味に合わせてなのか本人の趣味なのか、はたまた美由ねえへのプレゼントのつもりなのか、恭にーは旅先で見つけた刀剣類を土産物として持ち帰ってくる。

 旅客機では不可能な土産にどうやって持って帰ってきたのかと聞くと、要人警護の仕事で作ったコネをフル活用して船で運んでもらっているらしい。

「私も剣は好きだし、士郎の気持ち、わかる気がするな」
「ああっ、美由希さんも士郎の味方なのね……こーなったら桜ちゃん、貴女だけが頼りよ」
「えっ……えっと、趣味は個人の自由だと思いますし……」
「日和った、日和っちゃったよこの子!
 ちくしょー、この日和見主義者め。
 ううぅ、私の味方が一人くらいいてもいいじゃない」

 どっち付かずな桜の態度に「ブルータス、お前もか」とばかりに藤ねえが叫ぶ。

 そして己の孤立を悟って拗ねた藤ねえに桜が抗議の声をあげた。

「ひより……ちょっと藤村先生、いくらなんでもそれは酷いんじゃないですか」
「まあまあ桜、落ち着けって。それと虎、これで分かっただろ」
「トラって言うなああああ!!」
「藤村先生、叫べば何でも誤魔化せると思っているんですか?」
「ひぃい。桜ちゃん、怖い子」

 妙に黒いオーラを纏った桜に睨まれてるせいか、トラの咆哮にいつものキレが無い。

 藤ねえはガクガクと震えてこちらに「なんとかしなさい」と必死にアイコンタクトを送る。

 ああ、トラが怯えるなんて……強くなったな、桜。

 そんなことをしみじみ思いながら、いつまでもこうしているわけにはいかないので、藤ねえに助け舟を出すことにした。

「桜、残念だけどこれ以上藤ねえに構ってる時間は無い」

 はっとなって時計を見上げた桜だったが、まだかろうじて準備をするだけの時間は残されていると分かり安堵の溜息を漏らす。

「もう、焦らさないでくださいよ。お弁当はあと詰めるだけでしたよね」
「ああ、俺は洗い物を済ませておくからそっちは桜に任せる」
「はいっ、任されちゃってください」

 とても嬉しそうな桜の笑顔に思わずドキッとさせられる。

 少し赤くなっている顔を隠すために桜に背を向けてスポンジで皿を磨いていく。

 最近、桜のこういったちょっとした仕種がとても魅力的に思える時が多々ある。

 ……ったく、俺は友人の妹になにをどぎまぎしてんだか。

 軽い自己嫌悪に陥りながら皿を手際よく片付け、蛇口を捻り泡を洗い流す。

 最後の皿を洗い終えて桜の様子を見ると、彼女はちょうど自分用の弁当袋の中に弁当箱を詰めているところだった。

「ご苦労様」
「いえいえ、好きでやってることですから。お弁当、机の上に乗せておきますね。
 藤村先生、そろそろ……」
「えぇ〜、もうそんな時間なの。仕方ないわね。桜ちゃん、行くわよ」
「先輩、行ってきます」
「ああ、行ってらっしゃい。朝練頑張れよ」
「遅刻しちゃ駄目だからね」
「分かってるよ、藤ねえ」

 玄関まで二人を見送り居間の机の上にある弁当袋を持って自室に戻り、教材を鞄に入れて用意を終わらせて時計を見ると、時刻は七時十三分。

 洗濯機のスイッチを入れ、洗面台に向かい顔を洗って歯を磨き、鞄を取りに自室に戻る。

 たまには余裕を持って学校に行くのも悪くない。

 玄関の扉を開け、中にいる美由ねえに聞こえるように声を張りあげた。

「行ってきます。あ、あと洗濯物干しておいてくれるとありがたい」
「了解、やっとくよ。それじゃ行ってらっしゃい」

 美由ねえの声に送り出され、二年近く歩き慣れた道を進んでいく。

 太陽が昇って時間が経ったためか、冬の空気もそれなりにだが暖かくなってきた。

 見上げた空は、清々しいまでに蒼い。

 正門に続く坂を登りきると、グラウンドで練習をしている陸上部の連中が見えた。

 近々大会があるとかで練習にも力が入っているのが遠めに見ても分かる。

「ちんたら走ってんじゃねー、気合を入れろ!!
 おいこらそこの一年組、そんなんで大会に勝てると思ってんのか!?」

 グラウンドに響き渡るほどの大声をだして後輩達に活を入れている女生徒は、陸上部短距離走のエース、自称冬木の黒豹こと蒔寺楓。

 走りながらこれほどの声量を出せるのは素直に凄いと思うが、言われた一年生達からすれば堪ったものではないだろう。

「はぁ、はぁ……もう、これ以上は、無理っすよ」

 しかしまあ、そんな泣き言が獣に聞き入れられるはずもなく。

「泣き言言える体力が残ってんならまだまだ行けんだろーが、気合が足りん!
 つーわけでダッシュ20本追加。ほら、さっさと走れ!」

 後輩の現状が情けないのか、声には僅かな苛立ちが混じっている。

 そう言っている間に本人は走り終え、深呼吸を繰り返していた。

 流石に速いな、などと思いながら、半ばバテながら走っている後輩達に若干の同情を覚える。

 いまだ走り終わらない後輩に、蒔寺がいい加減我慢の限界らしい。

 ……このままほっとくと確実に切れるそうだな、あいつ。

 爆発する前に思い切って蒔寺に声を掛ける。

「そこらへんで勘弁してやれって」

 いきなり話し掛けられた彼女は一瞬驚いたような顔をしたものの、すぐに不快げに顔を歪めた。

「なんだよ、あんたにゃ関係ないことだろ。ブラウニーの出番はないんだよ」

 やり場の無い怒りの矛先がどうやら俺に向いたようだ。

 今にも唾を吐きかねないほど苛立っている。

「俺が部外者だっていうのは認めるけどさ、いくらなんでもお前並みの体力をあいつらに求めるのは酷ってもんじゃないか?」
「うるさいな、これぐらいしとかなきゃ大会じゃ太刀打ちできないっての」
「大会が始まる前に選手が壊れたら元も子もないだろうが」
「そこらへんの限度はあたしだって分かってるさ」
「ならいいんだが、傍から見ているとそうは思えないんだけどな」
「ぐっ、部活も無いくせに早く来たのはあたしに皮肉を言うためか?」
「皮肉? 俺は事実を言ったまでだ。
 それにな、俺だってそんなことのために時間を割くほど暇じゃないんだぞ」
「嘘吐け。散々生徒会の手伝いをしといてどの口でそんなことをほざくか」
「この口だ。それに手伝いって言っても学校にいる時間だけだろ」

 傍から見ればはてしなく無意味でくだらない言い争い。

 というよりも突っかかってくる蒔寺に、俺が冷静に対処してると言ったほうが正確かもしれないが。

 そんな不毛な争いを止めたのはタオルやスポーツドリンクの入った籠を持って走ってきた一人の女生徒だった。

「蒔ちゃん、何かあったの? ……って、あれ、衛宮くん?」

 ほんわかした雰囲気を持つ少女、陸上部のマネージャ、三枝由紀香。

 彼女は口論の相手が俺だとは思わなかったのか意外そうに目を瞬かせ、可愛らしく首を傾げた。

「おはよう、三枝」
「あ、おはよう、衛宮くん。どうしたの?」
「どうしたといわれてもな。蒔寺が後輩に厳しすぎるんじゃないかって言っただけだ」
「由紀っちからも言ってやってくれよ。大会はそんな甘いもんじゃないんだって」

 簡単に経緯を説明すると三枝は困ったように苦笑を浮かべた。

「蒔ちゃんが勝ちたいって思うのも当然だし、その気持ちは私も一緒。
 衛宮くんから見たら乱暴な言い方だったから勘違いしたのかもしれないけど、大会の厳しさを誰より実感している蒔ちゃんだからこそ、大会前に皆が駄目にならないように気を配ってるって思うんだ」
「三枝……」

 真摯に答えた三枝の言葉は蒔寺への信頼に満ちていて、声の調子から窺い知れる付き合いの長さと絆に、自分があくまで部外者に過ぎないのだと思い知らされる。

 だから、それを聞いた俺に出来たのはただ三枝を見つめることだけだった。

「でも、蒔ちゃんももう少し優しく言ってあげても良かったのも確かだし、今回はお互い様でいいんじゃないかな」
「そう……だな。出過ぎた真似をして悪いな、蒔寺」
「いや、あたしこそ八つ当たりして悪かった」

 互いに詫び、険悪な空気が薄れていく。

「あ、ほら蒔ちゃん。水分補給、水分補給。あ、衛宮くんもどうぞ」
「おっ、サンキュー」
「いいのか?」
「はいどうぞ」

 もうこの話は終わりとばかりに三枝がペットボトルを配り、全く関係の無い話題を振る。

 俺たちは日陰に設置されているベンチに腰掛け、ペットボトルのキャップを開けて喉を潤す。

「それにしても今日は衛宮くん、いつもより早いね。また生徒会のお手伝い?」
「いや、今日は単なる気紛れだ」
「そうなんだ、珍しいね」
「そうか?」
「うん、珍しいよ」

 会話が途切れる。

 しかしその沈黙は決して気まずいものではなく、むしろ……。

「だー、なんだよこの空気、やってらんねー!!」

 虎ならぬ黒豹の雄叫び。

 突拍子も無いその咆哮に蒔寺に視線を向けると、彼女はグラウンド目掛けて走り出し、今もなお走り続けている一年生を次々と抜いていく。

「ど、どうしたの、蒔ちゃん?」
「うぉぉぉおお!!」

 三枝の声は、暴走した獣には届かない。

「やれやれ、何をやってるのだ蒔の字は」

 呆れたような溜息と共にこちらに向かってくる一人の女子生徒、氷室鐘。通称氷室女史。

 高校生には珍しい長い白髪の持ち主で高跳びのエースらしいが、俺はまだ彼女が跳んでいるところを見たことが無かったりする。

「ほう、珍しいな。衛宮がこんな場所にいるとは」
「さっき三枝に同じことを言われたばかりだ。それとおはよう、氷室」
「ついでに聞こえるのは私の気のせいか? ……まあいい。おはよう、衛宮」

 こちらに気付いた氷室が僅か驚いたような口調で言う。

 確かに体育と生徒会の用事以外でグラウンドに出ることは滅多に無いので仕方ないと言えばそれまでなんだが。

「はい、鐘ちゃん」
「ありがとう」

 三枝からタオルとドリンクを受け取った氷室は簡潔に礼を述べ、汗を拭いていく。

 一息ついた彼女は蒔寺の暴走に至った事情を尋ね、簡潔に説明する。

 彼女は合点がいったとばかりに頷き、仕方あるまいと呟いてグラウンドに歩き出す。

「おい、蒔の字。もう予鈴まで時間が無いぞ」
「うおおおお…………って、マジで? もうそんな時間?」

 正気に返った蒔寺は慌てて時計を確認するが、まだまだベルが鳴るまで余裕があった。

「鐘、てめー嵌めやがったな」
「嵌めたとは失敬な、正気に戻してやったというのに」
「元からあたしは正気だってーの」
「とてもそうは見えなかったが。それにあちらのお二人さんが心配している」

 踵を返した氷室の後を追うように蒔寺が戻ってくる。

「蒔ちゃんも鐘ちゃんもそろそろ着替えてきたら?」
「そうだな……お〜い、ダッシュ終わったら朝練は終わっていいぞ!」

 その言葉を聞き、終わりが見えたためか俄然やる気を出して走る後輩達。

「まったく、そのやる気がどうして最初から出ないかね」

 走った後の肉体的疲労よりも後輩の情けない様子に対する精神的疲労の方が大きいのだろう。

 なるほど、彼女が言っていた通り彼らの限界はしっかりと把握しているようだ。

 更衣室に向かった二人の後姿を眺めながら、俺はぼんやりとそんなことを思った。

 隣では、穏やかに微笑む三枝。

 時が緩やかに流れていく。

 俺は視線を泳がせたまま黙して語らず、彼女もまた。

 その静かな雰囲気が破られたのは、着替え終わった蒔寺と氷室が帰ってきた時だった。

「お待たせ〜」
「待たせた」
「じゃあちょっと早いけど教室に行こっか。蒔ちゃん、鐘ちゃん、衛宮くん」

 階段を上り、クラスが違うので彼女達とは2−Cとプレートの掲げられた教室の前で別れる。

「じゃあな、また機会があれば」
「うん。じゃあね、衛宮くん」
「それではな、衛宮」
「とっとと行きやがれこの野郎」

 三者三様の挨拶、彼女ら陸上部三人娘は2−Aだっけ。

 ……しかし黒いの、それほど俺が嫌いなのか。

 他の二人と違って嫌味としか受け取れない言葉に少し傷つきながら、扉を開き教室に入る。

「おはよう、衛宮」
「ああ、おはよう一成」

 自分の席に向かう途中、現生徒会長であり友人でもある柳洞一成と挨拶を交わす。

「すまんが今日の放課後は時間が取れるか?」
「大丈夫だけど。何かあったのか?」
「うむ。大会が目前に迫っているせいか陸上部の備品の破損が酷くてな。
 俺では完全に壊れた物と修理すれば使える物の区別が付かんのだ。
 衛宮にはその分別と、可能ならば修理を頼みたい」
「陸上部か……。分かった、引き受けるよ」
「そうか、助かる」

 一成は苗字でも分かる通り柳洞寺の跡取息子だ。

 寺という環境に生まれたためか本人の性格のためかは分からないが、堅い喋り方が随分と板についている。

 一成自身はいたって地味な性格なのだが、そのルックスの良さと生徒会長という肩書き、更には文武両道とあって女生徒からの人気はきわめて高い。

 些か文化部贔屓と影で噂されるもののその事務能力は高く、つい先程の問答のように運動部のこともしっかりと考えており、一成が生徒会長に就任してから多くの問題が解決したと聞く。

「もう少し俺に衛宮のような技術があればお前に頼り切ることもなかったのだがな」
「気にすんなって。それに俺も何か陸上部の手伝いをしたかったんだ」

 せめてスポーツドリンクの礼くらいはしておきたいからな。

 訝しげな顔をする一成が理由を尋ねようと口を開きかけたとき、予鈴の鐘の音が鳴り響いた。

 着席して担任の到着を待つ。

 通常、クラス担任はチャイムと同時か一分くらいの余裕を持って来るものだが、生憎このクラスの担任はそういう人ではない。

 大人しく待っていると、突如地を揺るがすような怒号が聞こえてきた。

「遅刻、遅刻、遅刻、ちこくぅぅぅ!!」

 バンッと扉を破壊せんばかりの勢いで開き、飛び込むように教卓に向かう。

 朝練で早く出ていて遅刻ギリギリとはどういうわけだろうか……まあ考えても無駄だと思うが。

 そう、我がクラスの担任教師は藤村大河。

 同姓同名の別人とかではなく、我が家のエンゲル係数をうなぎ上りにする猛獣その人。

 彼女の登場に少し遅れる形で本鈴が鳴る。

「ふぅ、ギリギリセーフ。それじゃ皆、ホームルームはじめるわよ」

 安堵の溜息をついた藤ねえは簡単な連絡事項だけを告げて去って行き、それと入れ替わるように一時限目の担当教諭が教室に入ってきた。





 六限終了の鐘が響く。

 これで今日のカリキュラムは終わり、藤ねえは簡単な終礼を済ませる。

 礼を終えていざ放課後になり、部活に向かう生徒、自宅に帰る生徒、寄り道の雑談をしてる生徒達の波が引くのを待ってから俺は生徒会室に向かった。

「おーい、一成。いるか?」
「おお衛宮か。よく来た」

 軽くノックして生徒会室に入ると、一成は啜っていた緑茶を置き、テーブルの上に無造作に積み上げられた書類の中からホッチキスで留められた数枚のレポート用紙が手渡される。

 内容は破損した備品のリスト……うわっ、これ結構な数じゃないか。

「一成、多分これ今日中じゃ終わらないぞ」
「そんなことはこちらも分かっている。数日掛かりで構わん。
 ただ数箇所アンダーラインを引いてある部分があるが、それらは出来れば今日中に済ませてもらいたいのだが」
「了解、出来るだけのことはするさ」

 そう言って生徒会室を後にし、体育倉庫へと直行する。

 さてと、修理していくとしますか。

 重苦しい扉を開き、暗い室内で俺は工具箱片手に御目当てのブツを漁っていく。

 確か優先順位の高いものは、っと。

 そうだな、まずはハードルから片付けるとしようか。

 折れたり曲がったりしているハードルの山に向かい、早速作業に取り掛かる。

 本来、こういうのはすぐに買い換えるべきなんだろうけど、そんな部費の余裕も無いだろうから修理して使っていくしかない。

 それから大体二十分くらい経っただろうか。

 修復不可能と思われるハードルは廃棄し、辛うじて直せそうなハードルを集め、その五つ目を修理し終えて六つ目に取り掛かろうかと思っていた矢先、体育倉庫に誰かが入ってくる音がした。

 こちらに向かってくるその足音の主は俺に気付いたようで、驚きの声を上げる。

「あれ、誰かいるの?」

 その声は今朝聞いたばかりのもの、聞き間違えるはずがない。

「三枝か」
「その声、衛宮くん? こんな所で何してるの?」
「ああ、俺だ。それに何をしてるのかって見れば分かると思うんだけど」

 トテトテという擬音が似合いそうな足取りで俺の手元を覗き込んだ三枝はあっ、と声を漏らす。

「これって……」
「いつもと同じく生徒会の依頼の備品修理。
 そう言う三枝こそどうしてここに?」
「えと、石灰を取りに来たの。走りすぎでラインが消えちゃって」
「へえ、大変なんだな三枝も」
「ううん、衛宮くんほどじゃないよ。
 それにね……私、運動駄目だからこんな形でも皆の役に立てるのが嬉しいんだ」
「……俺も似たようなもんさ。
 少しでも人の助けになりたいって思って、だったらまずは今出来ることをしようって。
 ま、俺自身の趣味も兼ねてっていうのもあるんだけどな」

 そう、照れ隠しのように笑う。

 誤魔化したかった。

 自分と彼女が互いに他者を助けることに喜びを見出していたとしても、その根底にあるものは似ているようでいて決定的に違うのだということを。

「立派だね、衛宮くんは」
「そんな誉められたものじゃない。
 それに立派って言えば三枝だってそうだ。
 蒔寺や氷室のフォロー、二人とも全然タイプが違うからこんな単純作業よりもよっぽど大変そうだ。
 俺なんかよりずっと凄いと思うよ」
「二人とも一生懸命だから私が出来る精一杯で応援してあげたいだけだよ」
「そっか」
「うん」

 温かい空白の刻。

 朝の再現のようなこの時間も、長くは続かない。

「私、もう行くね。今日は本当にありがとう」
「こちらこそありがとう、だ。三枝」

 お互い軽く微笑み合い、彼女は目的の石灰を持って体育倉庫を出て行く。

 俺独り残される薄暗い空間の中、出口の手前で振り返った彼女はこちらに辛うじて届くような小さな声で呟いた。

「頑張ってね、衛宮くん」

 その言葉を最後に三枝の気配が遠ざかっていく。

「ああ、まったく。そんな風に言われちゃ中途半端なまま終われるはずがないじゃないか」

 離れていく三枝の気配を名残惜しいと感じながらも、その時の俺はきっと笑っていたんだろう。

 清々しい気持ちのまま俺は六つ目のハードルの修理を始める。

 さぁて、気合を入れて頑張るとしますか。






 空の色が変わりはじめたのを開けっ放しにされた扉から見た俺は、修理をしていた腕を止めて軽く息を吐く。

 彼女の応援があったお陰か思った以上に作業は進んだ。

 そろそろ帰らなきゃまずいなと工具を片付け生徒会室に足を運び、成果を告げて帰宅しようと校舎を出たが、校門の前で足を止めていまだ練習を続けているグラウンドを振り返る。

 鮮やかな茜色に染まる夕暮れの景色。

 三枝は忙しそうにあたふたと走りまわっており、こちらに気付く様子はなさそうだ。

 そのことを少し口惜しく思いながらも正門を後にして家の前まで帰ってくると、桜が夕食の準備をしているのか食欲をそそるいい匂いが漂ってきた。

 玄関の扉を開けてそのまま自室に向かい鞄を放り、洗面所で手を洗ってから居間に入る。

「ただいま」
「お帰りなさい、先輩」
「お帰り、士郎」

 おたま片手の桜と本片手の美由ねえの出迎え。

 美由ねえはそれからすぐに本に目を落としたので、俺は桜の手伝いをしようと台所へ向かう。

 しかしもう調理はほとんど終わっており、今更俺の出番は無さそうだった。

「悪いな桜、遅くなって」
「生徒会のお手伝いですか?」
「ああ」

 料理に桜に任せて皿や箸の準備をしていると、ふと違和感に襲われる。

「……あれ、藤ねえは?」

 いつもなら食事時には現れるはずの虎がいない。

 思い返してみれば玄関にも靴が無かった気がする。

「ああ、藤村先生でしたら職員会議で遅くなるそうです」
「職員会議って今日だっけ?」
「いえ、私も詳しくは知りませんが、なんでも緊急の要件が出来たとかで……」

 出来上がった食事を運び三人で食事を始めるが、藤ねえがいないとどこか物寂しい感じが拭い去れない。

 騒がしさとはあまり縁の無い会話と食事を続け、そのまま藤ねえが帰らぬまま食事を終える。

「結局、藤ねえは帰ってこなかったな」
「そうですね。夕飯、ラップに包んで持っていってあげたらどうですか?」
「そうだな、そうするか」

 藤ねえが来ることを考えて多めに作られた料理をラップに包み盆の上に乗せていく。

 それからしばらく居間で駄弁った後、桜の見送りついでに藤村組に届けることにした。

「先輩、また明日」
「ああ、じゃあな」

 藤村邸の前で桜と別れ藤村組に料理を届けて家に帰る。

 居間では、本を読み終えたのかテレビを眺めている美由ねえの姿があった。

「美由ねえ」
「うん。準備を終えたら玄関でね」

 腰を上げて夜の鍛錬の用意を取りに行く美由ねえ。

 俺も自分の装備を整え、玄関で合流して家を出る。

 戸締りを確認した俺たちは柳洞寺までの道程を走り出した。

 柳洞寺に着くと名物の長い石段を駆け上がり、山門を潜って本殿に挨拶に伺う。

「お邪魔します」
「おお、今日も来たのかい。士郎くん、美由希さん」

 本殿にいたのは一成と彼の兄である零観さん。

 零観さんは豪快な笑い声をあげながら俺達を歓迎してくれた。

 一成としばらく世間話をしてから、本題を切り出す。
 
「では場所を借りさせてもらいますね」
「ああ、存分に使うといい」

 夜の鍛錬は実戦を想定して様々な場所で戦闘を行っている。

 中でも遮蔽物の多い柳洞寺の森は御神の剣士にとって最高の立地であり、人目が無いため全力で戦う訓練の場としても最適なので、こうして何度も許可を得ては利用させてもらっていた。

 全力とはいっても無論大怪我をしないよう注意しているのだが……。

 無論それは手加減という意味ではなく、相手の実力を踏まえた上での駆け引きにも似た戦闘を行うということである。

「それでは零観さん、一成。また後ほど」
「頑張ってきなさい」
「怪我のないようにな」

 二人の見送りに礼を返し、俺たちは森の奥へと歩き出す。

 荷物から小太刀を模した二本の木刀を取り出し、木々の生い茂る暗い森で美由ねえと対峙する。

 礼は無い。

 開始の合図、初撃のタイミングは毎度俺に委ねられている。

 殺気を消し、気配を消し、呼吸を殺し、攻撃の機を窺う。

 冬の夜の気温が更に低下したような寒空の下、張り詰めた空気を破ったのは、意を決して踏み込んだ俺の一閃。

 右の小太刀の上段斬りを美由ねえは軽く身体を捻るだけで躱し、それを追うように突き出した左の一刀は彼女の持つ右の小太刀に弾かれた。

 脇腹を狙って振るわれる彼女の左の小太刀の横薙ぎを半歩下がることでやり過ごし、飛針を鉄甲作用で投擲して牽制しつつ打ち込みの隙を探す。

 俺が御神の技の中で唯一美由ねえに勝る点。それは投擲物の命中精度。

 回避できないと判断した美由ねえが飛針を弾く一瞬の間に、俺は大きく後方へと跳躍。

 背後にあった木の幹を蹴り、反動で別の木に移り、相手の死角へと移動を繰り返す。

 それからは木の枝や幹を活用した打ち合いが続き、静かな夜の森に似つかわしくない木刀同士のぶつかり合う音が響き渡る。

 勢いを乗せて放たれる剣戟を防ぎつつ間隙を縫っては反撃を行うが、決着はあっけなく、隙を付いたと思った刺突がカウンターを喰らい、体勢が崩れたところに繰り出された脳天目掛けての一撃を避けきれず、肩に走る鋭い衝撃に木刀を取り落としてしまった。

「ここまで、だね」
「参ったよ」

 残った一刀を地に落とし、両手を上げて降参の意を示す。

 肩に当たった木刀の返す刃がそのまま首筋の手前で寸止めされていた。

 これで何度目の敗北か……数えるのも億劫だ。

「今のはいけると思ったんだけどなぁ」
「甘い甘い、まだまだ士郎には負けられないよ」

 美由ねえは笑いながら木刀を仕舞い、タオルで汗を拭く。

 本殿に戻ると一成の姿は無く零観さんと、いつ帰ってきたのか穂群原学園の倫理教諭、葛木宗一郎がいた。

「どうも、葛木先生」
「うむ……その様子だとまた負けたか」
「ええ」

 そう言う葛木先生自身相当な実力者で、初見殺しともいえる特殊な戦闘技術と卓越した身体能力は並の武芸者を軽く凌駕する。

 彼の技を模倣しようとして、美由ねえが忙しい時などに時折手合わせを頼むこともあった。

 ……結局、必殺には程遠いレベルでしか使い物にはならなかったが。

 零観さんが勧めてくれたお茶を啜り、高そうな和菓子をありがたく頂く。

 しばらく他愛も無い雑談に興じて、ふと気になって葛木先生に尋ねてみた。

「そういえば今日職員会議があったようですけど、何かあったんですか?」
「藤村先生から聞いていないのか?」
「はい、藤ねえが帰ってくる前に家を出ましたから」
「そうか、ならば私から言うべきことではないな。明日にでも藤村先生に聞くといい」
「……ごもっともで」

 相変わらずの堅物ぶりに苦笑しながら答える。

 これ以上追及しても答えが帰ってこないのは明白だった。

「士郎、そろそろ帰ったほうがいいんじゃない?」
「そうだな。では失礼します、ごちそうさまでした」
「ああ、いつでも来るといい」
「ありがとうございます」

 二人の見送りを受けて本殿を後にし、石段を下ってのんびりと歩く。

 夜の深山町は驚くほど静かで、新都の喧騒とは対照的だ。

 会話らしい会話も無いままに衛宮邸に辿り着く。

「おやすみ、士郎」
「おやすみ、美由ねえ」

 鍵を開けて中に入り部屋の前で美由ねえと別れてから、俺は庭を通って土蔵に向かう。

 蝶番の重い扉を開き、ブルーシートを引いて結跏趺坐の姿勢をとり呼吸を整える。

「――――――同調トレース開始オン

 自身を無とし、紡ぐは自己暗示の呪文。

 これはあくまで自分を変革するためだけの言霊にすぎない。

 魔力という異物を通すための回路を元来備わっていない人体に創るのだ。そんなもの、並大抵の集中力では失敗する。

 歴史も知識も不足している俺にとっての魔術とは、自己の集中によって為される物だった。

 背骨に走る鋭い痛み。

 それは、魔術回路の生成に伴う苦痛。

 そもそも魔術とはいかに魔力を放出するか、その技術体系だという者もいるらしい。

 ある種の極論ではあるが、それはまたある一面では正論でもある。

 世界に満ちている大源マナと、生物それぞれが生成する小源オド

 魔力は大きくこの二つに分類され、大小関係に示されていることからも分かるとおり、当然ではあるが世界に満ちた魔力の方が個人の魔力生成量などを遥かに凌駕する。

 このマナをオドに変換するのが魔術回路だ。

 脳裏に浮かぶは輪郭のぼやけた一振りの剣。

 いつの頃からか、魔術を使う時には自然とこのイメージが浮かぶようになっていた。

 ……っと、なんとか無事に回路の生成に成功。

 俺の使える魔術はたかが知れている。

 『強化』と『投影』、あとはせいぜい『解析』くらいだ。

 当然五大元素なんて扱えないし、使用可能な基礎魔術にしても精度は粗い。

 成功率に関しては五年前に恭にーの不意を突くためだけに散々試したからまだマシ、それでも普通の魔術師に比べたら有り得ないくらいに低いんだろうけど。

 そして一通り今使える魔術の鍛錬を終えると、俺は自室に帰り布団に潜り込みすぐさま眠りに落ちていった。








 応援してくれる方、ポチッと↓




 次の話に進む   理想剣目次に戻る  前のページ


 一日目、衛宮士郎の普段と変わり栄えのない(?)日常生活。
 三枝フラグって感じの話っぽいのは私が三人娘で三枝が一番好きだから。
 ちなみに穂群原の女子生徒の好みとしては美綴>三枝>氷室>蒔寺って感じだったり。
 もうちょっと語彙力と表現力が欲しいと思う自分がいます。……あと知識も。
 これからも出来るだけいい文章が書けるよう心掛けたいと思いますので、出来れば応援よろしくお願いします。